俺様は特別って感じのコミュニケーション

俺様は特別って感じの顔をされると嫌な気持ちになる

今日も元気に情報収集していると、胸が痛くなるようなブログ記事が目に飛び込んできました。

元フジアナ長谷川豊氏のブログに学ぶ。やってはいけないダメなブログ文章とは?
http://kasakoblog.exblog.jp/23881702/

長谷川豊氏のブログは言っていること自体は良いのだが、俺様は違う、俺様は特別感が強くて素直に賛同しにくいといった内容。(逆に長谷川氏を非難する側もそのようになりがち、という話もある。)
鋭い分析だと思うのですが、これ、実は結構重大な問題で、いつも考えた末「では、どうしろと?」と感じる内容でもあるので、これを機に思考を整理したいと考えてみたいと思います。
ブログなど書き言葉にする時にはまだ推敲しやすいですので、炎上させる意図が無いならばそうゆう書き方をしなければ良いという話になると思いますが、一部の人にとって、日常生活においてこの「長谷川式」を出さないのは結構難易度が高いと考えているのです。


「俺様は特別」のメリットとデメリット

「俺様は特別」感を前面に出すコミュニケーションにはメリットとデメリットがあります。
まず、メリットとしては、単純にそうゆう「ドヤ」感はやってて気持ちいいということです。
「俺様は特別」感を前面に出してコミュニケーションをして、なお認められるということは、普通にやって認められるよりも「俺凄いでしょ?凄いでしょ?」とハードルを上げた上でも認めざるを得ないという能力の高さを示したことになるわけで、普通にやっていて認められるよりも大きい自尊心への刺激があると言えるでしょう。
また、人並みの能力では「俺様は特別」を前面に出しながらなお認められることは難しいので、特別である自分を創り出すため、維持するために多大な努力を惜しみません。向上心に対するメリットもあると言えるでしょう。
さらに、能力の高さを示せば認めてくれるような人を判別するための篩にもなります。「俺様は特別」を前面に出しても評価してくれる人は心の底から自分の能力を評価してくれている人と言え、何となく雰囲気で物事を判断する人ではないと言えます。
このように、自尊心・向上心・人の選別に対して「俺様は特別」感を出したコミュニケーションはメリットを持っているわけです。

逆にデメリットですが、これはもう、大半の人に不快感を与えること、これに尽きます。
デメリットとしては1つなのですが、このデメリットの大きさが果てしなく大きい。
不特定多数に対して「俺様は特別」感を発信すれば大量のアンチが沸きますし、そうでない場所で発信しても、篩にかけたいわけではない人に対しても「あの人は能力は高いんだけど、ちょっと…」みたいな印象を与えたりします。
また、「俺様は特別」感を前面に出しても認めてくれる人というのはどちらかと言えば少数派なので(逆に一部の人からは熱狂的な支持を得られるのですが)、大量の敵を作り、これが概ね待遇などにもそのまま返ってきます。自分の評価を決める人間は、大概の場合感情で他人を評価しますので。


「俺様は特別」認知には問題はあるのか

さて、「俺様は特別」感を前面に出したコミュニケーションに関しては、メリットもあるものの、デメリットもかなり致命的であることが解りました。
では、そもそもコミュニケーションの前に自分のことを「俺様は特別」だと認知すること自体には問題があるのでしょうか。
「俺様は特別」という表現が過激な表現なので、何となくしっくり来ないかもしれませんが、私は「俺様は特別」だと認知することは人間が生きる上でむしろ必要なことだと思います。
「俺様は特別」だと認知することは要するに自分と他人に違いを認知していることに他なりません。
自分が特別だと思っていない人は、他人に対しても自分と同じ水準を期待してしまうでしょう。その期待に押し潰されてしまう人の不幸な話は跡を絶ちませんよね?また、自分が特別だと思っていない人は心を病んでしまうことも多いでしょう。
このように考えると、「俺様は特別」だと認知することはむしろ必要不可欠で、それが無いことは逆に欠落している状態だと考えられます。
これは別に「俺様だけが特別」ということを意味するものではありません。「俺様と一部の仲間が特別」と考えることは共同体としてむしろ健全であるといえます。それは差別的なコミュニティだと糾弾する人もいるかもしれませんが、家族という共同体は自分たちは特別という最も差別的な共同体にして、多くの人にとって最も大事な共同体なのではないでしょうか。
このように、特別感というのは人間が人間であるために概ね必要不可欠な要素であると考えられます。


認知を表明するということ

さて、認知としては「俺様は特別」だと思わないことはむしろ不健全そうであることを説明しました。ですが、こうした特別感の認知が強ければ強いほど、それを表明した場合の周りからの反感も強くなります。とはいえ、そもそも認知に問題があったとしても、認知そのものを変化させることは非常に困難です。
ですので、人から抱かれる印象を変えたいと考えるのであれば、その認知をどう表明するのかという話になってくるのですが、自分の認知とコミュニケーションとの関係については、3つの在り方が存在します。

一つ目は自分の認知をそのまま表明する方法。
これは、「俺様は特別」感を前面に出したコミュニケーションを取る方法になりますね。
前述の通り、自尊心・向上心・人の選別に良い効果がある一方で、多くの人から嫌われやすいという大きなデメリットも持ちます。
この方式を利用している人には無自覚な人もいれば、自覚的な人もいます。
無自覚な人はともかく、自覚的な人はデメリットについても理解はしているのですが、それ以上に自尊心・向上心・人の選別を重視しているというわけです。
自分が取り得る方法で現状が改善しそうにないと感じている方、小規模なコミュニティで仲の良い人間とだけ上手くやっていきたいという指向性の方がこの方式を採用しやすいでしょう。

二つ目は自分の認知と真逆の内容でも割り切って表明する方法。
状況状況において最も人が好みそうな対応をする人で、世渡り上手と呼ばれる人はこのようなコミュニケーションを自覚的に行っている人と言えるでしょう。
この方式は誰に対しても丸く扱いやすい印象を与え、評価も得やすいです。
ですが一方で、自分の認知に反する行動を取るので、言動の論理的一貫性が失われていたり、褒めまくるので褒める行動の希少性が失われ、「この人に認められることが涙が出る程嬉しい」と言われるような人にはなれません。
また、多くの人には好かれる一方で、一つ目のコミュニケーションを好む人には目の敵にされます。(ただし、その人口は少ないので実害が出ることは少ないです。)

三つめは自分の認知を基本的に表明しない方法。
基本的に自分の考えを表明しないし、求められてもお茶を濁したり、嘘にならない程度に丸い言葉を使う方法です。この方法では人に嫌われることはない一方で、何を考えているのか解りにくく、人から好かれることもあまりないです。

社会的に良いとされているのは二つ目の方法となるわけですが、認知そのものが反感を抱きやすい認知をあまり抱かない人か、完全に割り切って行動出来る人でなければ心を病むこともあるでしょう。あまり万人に薦められるコミュニケーション手法であるとは個人的には思えません。


「俺様は特別」感のある人は変われるのか

さて、ここまで「俺様は特別」に関する解説を長々と行ってきたわけですが、ここからが本題です。
ここからは「俺様(と一部の仲間)は特別」感を強く認知してしまう人で、かつその認知を表明することを自覚的に行っている人に関する話になります。「俺様は特別」感の認知が少ない人はそもそもこの問題で困ってはいないだろうし、無自覚な人はこのエントリーを読んででも、啓蒙書を読んででもまずは自覚すれば良い。
「俺様は特別」感を前面に出すコミュニケーションを選択的に行っている人は、自覚的に行っているのですから、多くの人に嫌われてでも自尊心・向上心・人の選別に関するメリットを享受したいと考えてはいるわけです。
この現象は、自尊心・向上心・人の選別というメリットを大きく見積もっているというよりは、多くの人に嫌われることのデメリットを小さく評価していることが原因のことが多いように思います。
自尊心の高揚に対しては、「俺様は特別」コミュニケーションは確かに強力ですし、得難い気持ちよさはあります。また、この方式で自尊心を満たす人は言わば「自尊心中毒」とでも呼べるような、自尊心を強く満たし続けていないと辛いというような状況に置かれている可能性はあります。
ですが、この方式で満たさずとも静かに物事を達成することでも強い自尊心を得る方法はあります。また「自尊心中毒」は他の中毒と同様、しばらく離れていれば収めることが出来るものですし、他の中毒同様「このままでは俺はいけないのではないか」という疑念が沸かないものでもありません。
向上心に関しては、認知そのものが変わってしまわなければ「俺様は特別」であると表明しなくても、自分の中で特別であり続けるために格別の問題はなく維持することが出来るでしょう。
人の選別に関しても、「俺様は特別」だと言っても好きでいてくれる人は自分にとって大事な人である可能性が高いですが、別に自分にとって大事な人は必ずしも「俺様は特別」だと言っても好きでいてくれる人の中から見つけ出す必要はないでしょう。別に人を見ていれば自分が付き合うべき人間は自ずと見えてくるものですので、人の選別におけるコストメリットはそこまで大きくはないでしょう。
こうして考えると、「俺様は特別」コミュニケーションで得られるメリットは概ね代替可能なメリットなわけです。
そうなると、先ほど述べたように、その代替可能なメリットを代替しようと思わないぐらいに多くの人に嫌われるデメリットを低く評価していることになる。要するに、「自分は周りの人間に恵まれていない」という認知によって「俺様は特別」コミュニケーションは正当化されているのではないか、と。
っで、「自分は周りの人間に恵まれていない」と認知しているから「俺様は特別」コミュニケーションが正当化されているのだとすれば、そこが恵まれてたらこのコミュニケーションは正当化されないわけです。もっと言えば、「俺様は特別」コミュニケーションを取っている人は、自分のこのコミュニケーションが自分にとって理想的なコミュニケーション手段だとは考えていないということです。出来れば認知通りに表明しても「俺様は特別」感溢れる行動に繋がらないような世界に存在したいわけです。
となれば、問題となるのは「俺様は特別」コミュニケーションを取っている人間の精神性ではなく、「自分は周りの人間に恵まれていない」という認知の問題なんですよね。
これを解消出来れば、本人にとっても、周りにとっても恐らくハッピーになるわけです。
ではどうすれば良いか。認知を変えることは困難ですので、環境を変えることで、「周りの人」の定義を塗り替えてしまうというのが今私が思いつく限りの一番マシな一手です。
認知を変えることが出来れば解決策をそれに限る必要はなくなるので、認知を変え得るような何がしらかのイベントが発生するように仕掛けてみるのも一手かもしれません。(しくじるともっと歪む可能性大ですが)
他にも何かあるんですかねぇ。
これらの方法が必ずしも効果を生むわけでもないし、「自分の認知と真逆の内容でも割り切って表明する」は流石に耐えられないとしても、「自分の認知を基本的に表明しない」を使いつつ、「自分の認知をそのまま表明する」で得られるメリット分は上手く得るみたいなハイブリッドな方法を模索することで解決出来ると面白いのですが。


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