『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見 一郎・著の書評まとめ


単行本1620円 Kindle版1080円

書評

爆発的なヒットを経てアドラー心理学という言葉を一躍有名にしたその本です。
対人関係に関する悩みをアドラーが提唱した理論を利用して消し去る、というのが本書の最大目標です。
元々アドラーが提唱した難解な理論を、対話形式で読みやすく、解りやすく楽しめる形で本にしているのが特徴です。(哲人と青年による対話によって話が進んでいくのですが、やたらテンションの高い台詞もあり、読んでいて素直に面白いです。)
ちなみに、本のタイトルから私が最初に連想したのは「嫌われるかもしれないような本質をついた発言こそが対人関係において有用なのだ」というような内容で、他には「人に嫌われても構わないから自分の欲望のままに生きるべし」というような内容を予想した人も多かったようです。この本にはそれらのどちらとも大きく異なる内容が記述されています。
さて、その内容なのですが、本書で本当に言いたい事柄は二つの考え方なのだと思います。
一つが、原因論ではなく目的論で物事を考えること。もう一つが課題の分離です。


目的論

例えば引きこもり状態になっている人がいる時、このように自分を説明することがあると思います。
「不安だから外に出たくない」
これは「外に出たくない」という自分の状態に対して、不安だからという理由付けを行っています。このような物の考え方を原因論と言います。
それに対して目的論で物を考えるとはどうゆうことかというと、『「外に出たくない」という状態を選択するために「不安である」という感情を作り出している』このように考えるということです。
原因論では自分の状態を説明するための理由を探す考え方をしているのに対し、目的論では、そうした理由付けを、自分の状態を肯定するために生み出し、利用しているものだと考えます。
そのように考えて行くと、

過去に高いところから落ちて大けがをしたトラウマがあって私は高所恐怖症である

私は高いところを避け続けたい。そのため、過去に高いところから落ちた経験を持ちだしている。

私は馬鹿だから明日のテストの点数はどうせ低い。寝よう。

私は明日のテストの点数よりも今の眠い感情を優先したい。そのため、自分は馬鹿であるというレッテル貼りをしている。

といった感じに言い換えが可能になります。
原因論は自分にとって都合の良い解釈を行うことで現在の状況を肯定出来るので、気持ちが楽になります。一方、目的論によって考え直すと何か小賢しいことをして無理矢理自分の今を肯定しようとしている感じが出てきて、居心地が悪くなりますね。
そこまでであれば、原因論で物を考える方がいいと思えるかもしれませんが、原因として使った「不安な自分」「高所からの事故で負ったトラウマ」「私は馬鹿であるというレッテル」といったものはより強固に自分を縛りつけてしまいます。
一方、目的論では「外に出たくない」「高いところを避けたい」「テストの点数は低くてもいいから寝たい」といった想いのその原因は自分がわざわざ持ち出してきたものということになります。それならわざわざ持って来なければいいよね、ということになり原因の呪縛から解き放たれています。そのままの自分の感情を抜き出して吟味すれば良いということになるかと思います。
つまり、原因論によって雁字搦めになり身動きが取れなくなったら、目的論に立ち返って原因を外出ししてやると自分が本当はどうしたいのか見えやすくなる、ということではないでしょうか。


課題の分離

これは自分がコントロール出来る範囲と他者にしかコントロール出来ない範囲とを分離して物事を考えるということです。
例えば、自分が誰かに好かれようと思って何かをする場合、
①自分が相手にする行動
②相手が自分に抱く感情
という二つのものを想像するでしょう。①は自分がコントロール出来るものなので自分の課題。②は自分がコントロールできないものなので他人の課題となります。
例えば、
①私は会社の部下の誕生日を祝うため、ケーキをプレゼントした
という場合に、

②お祝いの感謝の気持ちで非常に喜んだ
なのか
②形式的儀礼的行事に巻き込まれて非常に面倒いという顔をした

となるのか、他人の課題である相手の反応はコントロール出来ないということです。
この時、「相手は喜ぶだろう」と期待して行ったのに「面倒くさい」という顔をされたことに腹を立てる。これは他人の課題は相手が決めることなはずなのに「喜ぶべき」と他人の課題に踏み込んで自分が決めつけていることが原因というわけです。
こうして他人の課題と自分の課題を切り分け、自分の課題をより良く全うすることにだけ注力し、他人の反応に対しては「こうあるべき」という決めつけをしない。それを徹底すれば対人関係に腹を立てたり、煩わされたり、悩んだりすることはなくなるという話です。

本書のタイトルである『嫌われる勇気』とは、嫌われると思って行動しろという意味ではなく、人に貢献しようとして行ったことで嫌われてしまってもそれは他人の課題に関すること。自分の課題と他人の課題を切り分けて自分の課題のみに注力する勇気ということなのかな、と。


所感

アドラーは「他者に貢献することで幸福が得られる」という生き方の指針を打ち出していました。アドラー心理学という名称は取っていますが、アドラーが提唱したものは心理学というよりは哲学に近い物です。哲学というのは特定の仮定に基づいて思考を極限まで深めていったものと私は理解しています。
アドラーの場合、その仮定を「他者に貢献することで幸福が得られる」というところに置き、そこから思考を深めていったのかなと私は感じました。
「他者に貢献することで幸福が得られる」という信念を最上位に置いた時、その幸福を邪魔するものとしてまず最初に思いつくのが、貢献対象の他者から嫌われてしまった時の苦しみでしょう。私は貢献したつもりなのに、相手からは軽く扱われることに対する怒り。これが沸いてしまうと幸福感が吹き飛んでしまいますが、相手の反応は自分にはコントロールしきれない。
だから課題の分離を通じて「私は貢献する」でも「あなたが私に感謝するかどうかは気にしない」という考えを徹底することで怒りを鎮めた。
また、「過去に裏切られた経験があるからその人に貢献したくない」という感情も「他者に貢献することで幸福が得られる」に基づく行動にとっては邪魔です。なので、「私は貢献したくない」という感情を理由付けするために「過去に裏切られた経験」を持ち出している。しかし「私は貢献したくない」のだろうか?いや、「他者に貢献することで幸福が得られる」私は貢献したいはずだ。貢献しよう。
こんな形で「他者に貢献することで幸福が得られる」という至上命題に対する邪魔物を排除する過程で目的論と課題の分離が生まれたのかな、とか。

目的論も課題の分離も心を穏やかにする手法としては「なるほど」と思うものなのですが、イマイチ繋がりが見えにくいなという感覚があったのですが、「他者に貢献することで幸福が得られる」という至上命題を通すための手法だと考えると何となく腑に落ちます。
逆に言えば、課題の分離や目的論の考え方が何となくしっくり来ないという人は多分「他者に貢献することで幸福が得られる」という命題を行動原理の最も根幹の部分にはおけない人なんだろうなと。これは私も含めてなのですが(ぁ
勿論「他者に貢献することで幸福が得られる」という感情はありますが、例えばそれに見返りを求めないではいられない人間。そうゆう人間が、ないしそうゆう人間同士がどうすれば幸せになれるのか。まだまだ考えなければいけないことは多いようです。


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